人の生い立ちはその後の人生に影響を与える。
皆さんは今、どんな人生を歩んでいますか?
嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと、悔しいこと色々ありますよね。
悩みがない人なんていないと思います。
ある時ふと、どうして自分苦しいんだろう、と思ったことはありませんか?
私が初めて、なんか自分苦しいなあ、嫌だなあと自覚したのは幼稚園の時でした。
なぜそう思ったのか、私の生い立ちと共に振り返っていきたいと思います。
ご興味のある方はお付き合いください。
大事に育てられたからこそ、あらわになった私の苦しみ。
私は一般的に言っても、とても恵まれた家庭に生まれ育ったと思っています。
私は今から50数年前、父と母と、父方の祖母の元に第一子、長女として生まれました。
祖母からすれば初孫です。
父母からすれば第一子、長女です。
祖父は第二次世界大戦で戦死したので、いませんでした。
よって父親は祖父の顔を知らずに大人になりました。
妹が生まれるまで、大事に何不自由なく育てられる。
一番最初の子ども、孫ということで沢山の愛情をもらって育てられてきました。
父母からすれば初めての子どもなので、子育てがぎこちなくなるのは当然です。
妹は私が3歳の時に生まれたので、
三歳まで大事に何不自由なく育てられたことになります。

母親は、それはもう、頑張り屋さんの母でした。
一般的にみると、愛情もあるし家事もきちんとやるので、いい母親だったと思います。
そんないいお母さんの元で育てられてよかったね。と言われると思います。
私も、家の外に出なければ、愛情を沢山もらって確かに幸せだったでしょう。
ですが、人は成長すると、必ず世間に出なければなりません。
幼稚園、小中高、大学、社会人。。。。。。
世間にもまれて、また成長していくのでしょうか。。。。
妹が生まれるまでの、私の環境とは?
- 父は会社員で、出勤する。
- 祖母は戦争未亡人だったため、市場で野菜を売る仕事をしていた。
- 母は専業主婦で家事をしていた。
- 父はまだ安月給だったので、洋服を買うのは困難だった。
- 母は私の面倒をみながら、家事の隙間に自分や私の服を作っていた。
- 私の周りには子どもはいなくて、いつも大人に囲まれていた。
- 私は大人の会話に聞き耳をたてるようになった。
- 父や母と体を使って遊んだ記憶がない。
- 私に与えていた母乳が出なくなり、途中から粉ミルクになった。
- 私が泣くたびにミルクを与えていたので、私は肥満傾向になっていた。
記憶に残っているエピソード2つ。
①父親が嬉しそうにチョコレートを買ってきて、私に与えた。
②父親が動く犬のおもちゃを私に買ってきた。
動いて吠える犬のおもちゃを怖がる私を、みんなが笑って見守っている。
③耳が痛いと泣き叫ぶ私を、夜中タクシーで病院に連れて行ってくれた。
4歳の時の初めての幼稚園の運動会で、ビリのビリのビリ。
私は4歳になって幼稚園に入園しました。
秋になると運動会があり、子どもたちの家族もたくさん応援に来ます。
写真が残っているのですが、運動会でお買い物競争というものがありました。
用意ドンで走って、エプロンの所でとまって、エプロンを着けて紐を結びます。
そしてお買い物かごをとって、品物を入れて、ゴールするというものです。
私はそのエプロンを着けるのが、なかなかできなかったのです。
余の遅さに、次の2組も仕方がなくスタートしてきました。
私は後に走ってきた2組目のビリとしてゴールをしたのです。

私も恥ずかしかったのですが、母親もきっとそんな私をみて、心配したでしょう。
その後、運動会の徒競走と言えば、
みんなと差をつけてのビリは、私の定番になりました。
お母さん、なんで私を、人並みにできる子に育ててくれなかったの?
私の母にはずっと言えていないのですが、
この気持ちは幼稚園から40歳ごろまで持ち続けていました。
当たり前ですが、幼稚園に行くようになってからずっと、世間とかかわることになります。
いろんな人がいる中でも、私は人よりできが悪かったのです。
何のできが悪かったのか?というと、
体を使ったすべての作業が、遅くてぎこちなかったのです。
一言でいうと、運動にかかわるものすべてです。

本を読んだり工作をしたり折り紙をしたりは、好きなのですが、
運動が全くできなかったのです。
運動ができないとなると、とても目立ってしまいます。
それがずっと目立ったのは、必然的に運動会がある短大卒業までとなります。
まあ幼稚園から短大まで約16年間ですね。。。。
本当に、体育の時間と運動会は、苦しくて惨めで仕方がなかったのです。
やはり、今振り返ると、私の生まれ育った環境ではこうなるのも仕方がなかったと思います。
今では運動会に出ることもなく、ほっとしています。。。
今の幸せは不幸なのかもしれない。今の不幸は幸せなのかもしれない。
今の時代はちょっと違うと思うのですが、
私の育った時代は、みんな同じようにできることを目指す風潮があったと思います。
特に学校では、同じ年の子が同じ教育目標をクリアするように教育されます。
こうならなければいけないとか、こうするのが常識とか。。。
そんな風潮が当たり前の中では、ありのままの自分でいることは、なんか苦しいですよね。
人は各々全く同じ人はいなくて、唯一無二の存在です。
人それぞれ苦手なこともあるし、得意なこともあります。
だからこそ助けられることもあるし、支えることもできます。
だからありのままの自分でいいのです。
ありのままの自分を大事にしましょう。

苦しんでいたころの自分は、
「こんな私嫌だ。お母さんのせいだ。」ってずっと思っていました。
つい最近は、
「これが私だ。それでも大分成長したかな。。」と思えるようになりました。
話が飛ぶのですが、
つい最近、
今の幸せは後の不幸なのかもしれない、今の不幸は後の幸せなのかもしれない、
とも感じるようになりました。
物事には必ずメリットとデメリットがセットになっている、ということです。
これは前回ご紹介した、引き寄せ波動風水師リュウタさんから、教えてもらったものです。
目先の幸せ、不幸にとらわれずに、
もしかしたら反対のものもひそんでいるのかもしれない、と見てみるのです。
結局物事にはメリットもデメリットもセットであるのなら、どっちでもいいや、
という心境になりませんか?

ちょっと目線を変えると、楽になることもあります。
とらわれると重くなるのですが、
どっちでもいいやとこだわらなかったら、軽くなりますね。
この軽い感じがいい波動となるようです。
私もまだまだ勉強不足で表現が適切ではないのですが、
ここのタイトルの不幸という言葉を、学びに変えるといいかもしれません。
今の幸せにも学びがあるかもしれない。
今の学びにも幸せがあるかもしれない。
今でなくても先に幸せがあるかもしれない。
学んで成長していくのだから、今よりもずっと幸せになるに決まっている。
苦しい時、心乱れた時、いつも自分に言い聞かせています。
